―背後霊不足も深刻だな……
勇樹は、歩き出した。人混みは酷く疲れを感じてしまう。どれほど歩いただろうか。周囲の雰囲気にもなれ、疲れをさほど感じなくなり始めた。
あくまで気になっているだけである。
―さて、と…そろそろ……いいか…
勇樹は、人の多い方へと移動を始めた。慣れたとはいえ、人混みはやはり苦手である。だが、とにもかくにも知らない世界の見物である。とりあえず人の向かう方へいけば何かしら見られるだろう。折角のチャンスだし……。
黒装束の男は、溜息をついて花壇の縁に腰を下ろした。見るからに怪しげな格好をしている男だった。だが、誰もその男に気付かない様子で前を通りすぎて行く。彼の姿は、普通は見えない。霊感力の高い人間や死期の迫った人間には稀に見える事は有っても、生きているうちに会うことは少ないはずである。あくまでも、はずである。
彼は、横の建物に目を向けた。病院である。病気の治療に来た様子はない。
彼は、深く溜息をついた。憂鬱そうな表情をしながら、脇においてあったマスクを手にした。髑髏をかたどったマスクを。そして、逆側においてあった鎌を手に持った。
彼の職業は、死神である。魂を肉体から切り離す事を生業にしている。が、彼はすぐに情にほだされる。その為に、他の死神が、魂を肉体から切り離しに来る事もしばしばであった。この仕事に向いていないのだろうか、職業選択の余地は、残念ながら彼にはない。死神として誕生した以上、死神と言う役割を持つのは必然なのである。
―仕方ないよな……役目なんだから…
まるで自分に言い聞かせるように考えながら、死神は重い腰をあげた。
仕事である。といっても、すぐに魂を切放つわけではない。死期の迫った人間か放つ気配を感じ取り、その人間のもとにいることから彼らの仕事は始まる。命の火が消える瞬間、それは定められていない。人間の持つポテンシャルが、その時間を微妙に狂わすからだ。
死神達は、生体エネルギーが一定レベルよりも下がると何処からともなく現れる。命の炎の消える瞬間、魂を肉体から切り離してやるのである。彼らは魂を切り離し、天使と悪魔に預けるまでを役割としているのである。
死神は、重い足取りで病院に向かった。
命には理が有る。それは、幾つかの定めからなるものである。だが、全ての生き様が克明に定まっているわけではない。いうなれば、人生とは阿弥陀くじのようなものである。分岐点において、選ぶ内容が先の人生を決定付けるのである。
その最後の分岐点に関わるのが死神と天使と悪魔である。最終決定をするのは、あくまでも閻魔大王ではあるが、詳しくは後で解説すると言う事で、いまは割愛したりする。
死神は、T大学付属総合病院へと入っていった。
勇樹にとって、見る物は全てが物珍しい。天想界には存在し無い物が多いから、といえばそこまでだが、気分は完全に「おのぼりさん」である。見上げれば、先端の見えないビル郡も、ごちゃごちゃと存在する人も、勇樹にとっては珍品、珍人である。
―ハン…バーガー……
勇樹は、ファーストフード店の前で足を止めた。
「いらっしゃいませ…」
「え…?」
勇樹は、辺りをキョロキョロと見回してみた。他には誰もいない。カウンターの向うから声をかけられたのは、どうやら自分らしい、という事は必然的に判断できた。
「こちらでお召し上がりですか?」
「…?」
勇樹は、カウンターに近付いた。カウンターのテーブル面には、ボタンの一杯ついた機械が置いてある。機械と機械の間には、写真と数字、字の並んだ物があった。
「お持ち帰りですか?」
笑顔で女性は勇樹にたずねた。
「え~っと、これとこれ…」
とりあえず、セットらしき物を選んでみる。
「お飲み物は何にいたしましょうか?」
「え…コーヒー…」
「サイズはMでよろしいでしょうか?」
「はぁ」
「お会計の方をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「会計……?」
勇樹は、キョトンとした表情で女性を見た。
人界に降りることの無かった勇樹にとって、人界の知識は必要のないものであった。当然、お金がなんであるのか、知るよしも無い。既に知識の範疇はこえていた。興味だけではクリアできない問題は、山ほどあるのである。
「あははは…」
突然、後ろで笑い声がした。
勇樹が振りかえろうとすると声の主は、勇樹の横に来た。一八~九歳くらいだろうか、女性である。女は、カウンターでなれたように注文すると料金を支払った。
「上に行きましょ…」
「……?」
「持ってください…」
そう言って女は、勇樹にハンバーガーの置かれたトレイを渡した。訳はわからなかったが、渡されたので、とりあえず指示に従うことにした。それに、ハンバーガーには興味があった。なにかしら起きた時は、その時に考えるとして、とりあえず行動してみた。
女について二階へとあがるとそこにはテーブルがあった。数組の人たちが食事をしていた。必要以上に顔を近づけて話している者も、ボーっとしながら食べつづける者もいる。テーブルで居眠りをしている女性までいた。
「タバコは…?」
「タバコ?」
「いいわ…端の席にしましょ…」
「……」
勇樹と女は、窓際の角席についた。女は、それが当たり前のように振舞っている。時折見せる笑顔がまぶしい。屈託の無い笑顔というのは、こういうのを言うのかもしれない。
「ねぇ、ところで……その羽は、趣味?」
「え…?」
「背中の真っ白な羽、重くない?」
女に言われて勇樹は、ガラス面に映る自分を見た。光の屈折率に狂いは無い。人界の服装をしているし、羽も見えていない。
「何か、見えるのか…?」
「え…?」
勇樹に言われ女は、もう一度勇樹の姿を見直した。羽など無い。
「あれ、気の所為だったのかな?」
「さぁ…?」
「まぁ、いいか……ごめん、まだ、名乗っていなかったね、安斉祥子」
「あ、神崎勇樹…」
「そう、勇樹っていうんだ……ねぇ、折角だからデートしない?」
「デート…?」
「そ、デート、アタシとじゃぁ……嫌?」
祥子の笑顔につられるように勇樹は頷いた。デートが何かは解らなかったが、応じないといけないような気になって、何故か頷いたのである。
「ああ~っと、その、手を握っても良いかな?」
「え?」
「手…握らせて、」
「?、いいよ…」
戸惑いながらも祥子は、手を差し出した。
「ありがとう…」
勇樹は、差し出された手を握った。
「時をかけぬけし風の精霊よ、彼の者の知識、我に分け与えよ」
勇樹は、囁くように詠唱を唱えた。
この術は、天使たちがよく使う術である。初めて行った世界で知識を得るために、適当な住人から経験という知識を分けてもらうのである。といっても、勝手に分けてもらうのだが。この術の最大の欠点は、術者が知識を分けてもらう相手に触れていないといけないところである。つまり、姿を隠すことができないということである。だから、必然的に夜中に勝手に行う事が多くなるのである。知識を分けてもらっている間に相手が目を覚ましたら間違い無く、泥棒か痴漢扱いだろう。
風の精霊達が勇樹に祥子の半生を伝えていく。生まれてからの経験を、学びを知識として伝えてくれる。それらの知識を持ち合わせている自分の知識と照合していく。
「アタシね、時々変な物が見えるんだ…」
「変な物…?」
「例えばね…見えるかな?」
「え…、?」
祥子は、少し困ったような笑顔をもらし、勇樹の映るガラスを指差した。
「!…」
ガラス面には、祥子と黒い影が映っていた。
慌てて、祥子の方を見てみる。その後ろには誰もいない。
―死神・・・…
ガラス面に映っている死神は、祥子の素振りと勇樹の素振りで自分が何らかの失敗をしていることに気付いた。が、何が失敗しているのかわからない。ただ、失敗をしたのだろうな、という思いだけがある。
「祥子と呼んでいいのかな…?」
「え、?」
「デートするんだろう…」
「いいの…?」
「ああ、とりあえず…動こうか…」
「うん!」
「あ、ちょっと待ってて……トイレ」
勇樹は、祥子の後ろにいる死神の服をつかんで、トイレの方へと引きずっていった。
―え…?ち、ちょっと…
死神は、突然のことにあせった。人にそんなことができるのか?という疑問で頭の中が一杯になった。無論、姿を消している以上、自分の声が人に届かない事はわかっているが、騒がずに入られない。
勇樹は、トイレには入らず、死神をトイレに押し込んだ。服の裾を離さずにドアに挟み込み、外から使用中にロックする。
トイレの脇に置かれたダストボックスの上に置かれた紙ナプキンを適当に取り、光の屈折率を変える。細工をしてもナプキンはナプキンである。勇樹のしようとしていることは人界では犯罪である。
それを半分にしてポケットに押し込む。
「お待たせ…」
「うん、」
「ここ、奢ってもらったから、後は俺がおごるよ…」
「え、いいの?」
「ああ……」
勇樹と祥子は、ハンバーガーショップを後にした。
―あれ、閉じ込められているよ・…
死神は、一生懸命ドアノブを握ろうとしていた。が、握れない。
どれほどの時間が過ぎただろう。何人の人がノックをしていっただろう。
こんなに努力しているのに、ドアノブを握ることができない。何故、ドアノブが握れないのかが解らない。確かにそこにドアノブがあるにも関わらず、何故か握ることができない。思いつくことは全てやってみた。が、一向に進展しない。なんか虚しくなってくる。不意にそう感じたとき、死神は、目に涙を一杯ためて地団駄を踏んでいた。
死神がドアノブを握れないのは姿を消しているからである。と、いっても実際には存在しているのである。消えるというトリックを使っているのにすぎない。
勇樹が行っている『見えない』というのは、光の屈折率を変えることによって見えないように思わせてるにすぎない。それに対して死神の行っている『消える』というのは、物質を透けさせるという方法である。
人であろうと、死神であろうと、その他のものであろうとも、身体は物質元素の集合体である。物質元素は、一定の法則で運動をしているが、運動の方向性をある法則にしたがって定め、運動速度を変化させると、物質は消えたように見える。実際はあるということを忘れてはいけない。これは、物質を構成する元素が運動によって、光やその他の物質構成元素を素通りさせるために起こる現象である。
つまり、死神は、物質構成元素を操ることで姿を消したということである。
当然ながら、運動速度の違う物質の構成元素は、素通りするので、死神はドアノブをつかむ事ができないのである。
余談になるが元素の運動方向が45度、90度の角度でぶつかり合うときは素通りすることはない。と、いうことで、死神は、二階に存在することができるのである。実際はそこにいるのだから。ガラス面に映ったのも同じ原理である。
―誰かぁ~!…と叫んでみたが、誰も返事をしてくれない…
まだ、声が音になっていない事に気づいていない。
このまま、ここで生涯過ごす事になるのだろうか。不意に不安がよぎる。不安が不安を呼ぶ。こななると、もう出口の見つからない迷宮に紛れ込んだ気分である。死ぬ事が無いという事実。それが寂しさを誘う。しかもトイレだけに余計に…。
―わぁ~、助けて~~
力一杯叫んでみた。返事は無い。あるはずは無い。声が音になっていないのだから、ドアの向こうにいるだろう人たちには聞こえない。せいぜい、「長いトイレだな」と、思われる程度である。
涙が止まらない。誰も気づいてくれない寂しさで、トイレに閉じ込められたという悲しさで。
死神は、とりあえず便器に座ることにした。騒いでみたところで何の解決にもならないからだ。もう一度自分の置かれている状態を考えてみる。その為には、落ち着く事から始めるべきだ。そう、言い聞かせて。
―!…す、座れる…
些細なことに感動してみたりもする。
―と、言うことは……
死神は、姿をあらわしてみた。
ドアノブが握れる。
回してみる。回せる。
死神は、大粒の涙をこぼした。単純に物に触れることに感動する。と、いうよりも密閉空間から開放されたことに感激していた。
「ア~~~ぁ、生きているって…すばらしい…」
声が音になっている事に気づいていない。
トイレに入ろうとした女性と目が合った。
悲鳴が上がり、程なくパトカーが着いた。